コラム

裁判官の自殺に思う

8月23日、大阪地裁部総括判事(57)が、裁判長を勤める裁判員裁判(強制わいせつ致傷)の判決前に、官舎で首吊り自殺により亡くなった。

同日午前11時からの裁判員裁判による判決は、前日(22日)に評議が済んでいたとして、別の判事が代読したということらしい。

 

本当にお気の毒で、ご冥福をお祈りする。

 

2チャンネルなどというサイトには無責任な投稿ばかりが溢れているが、私は、この裁判長は裁判員裁判に殺されたと言っても過言ではないと思う。相当なキャリアを持っている裁判官が家庭その他私人の悩みごとで判決当日自殺などすることは到底考えられない。

 

医療の世界或いは司法の世界とも、専門化同士では極めて容易な会話ができる。これは、その世界にいる人間の思い上がりではない。日本中どこにもあることだ。

例えば、道路を造る建設会社においても一般人には説明不可能なことが山ほどあり、発注者が全てを知っているわけではない。建物を建てるときにもそうだ。

 

そのような現象の中で、あるとき突然、専門的知識のない者に、それを逐一説明して理解をしてもらったうえで、物事を進めなければならないとなったら、どうだろう?

その労力は、物を作りだすそれより遙かに多くの労力を要するであろうし、それによって作業は大幅に遅延することは間違いない。

 

裁判員裁判においても同様で、それまで法律(それも人を裁くという極めて専門性の高いもの)に全く無縁であった人たちが、いわば一見さんで裁判に向かうとき、それを取り仕切る裁判長及び陪席裁判官の労力はどのようなものか想像に難くない。

 

弁護士が、依頼を受けるとき、事件のほとんどが整理されていない状況下において、法律を知らない人から事情を聞き、それを法的な事実としてまとめ上げるのと似ている気がする。

 

これまで弁護士のように生の事実を聞いたことのない裁判官において、裁判員、それは多くの価値観を持ち、法的な能力(事実認定)においては裁判官の足下にも及ばない人たち、に説明をすることの労力は並大抵ではない。

聞くところによると、全国では裁判員裁判が多く存在し、審理も遅れがちであるという。

そのような中で、時間に追われ、裁判員に対する説明に追われる裁判官にものすごいストレスが溜まっているとしてもおかしくはない。

もう一度、裁判員裁判を見直してはもらえないだろうか?

反対論者の頼みでもある。