8月13日から8月16日の旧盆休みを利用して、妻と二人、車で東北を巡った。判事補時代の最後の3年間(昭和60年4月から昭和63年3月)を仙台地方裁判所で過ごした縁のある地が、昨年の3.11震災で一体どのようになっているのかを見たかったからだ。被災者の方にとっては不謹慎な行為かもしれないが、そんな縁のある土地が1年間でどのくらい復興しているか、あの大災害はどのようなものであったかをこの目で見たかった。
まず、仙台の南に位置する名取市閖上港のある荒浜地区に行った。閖上港は釣りに行った場所だ。貞山堀ではハゼやスズキが釣れた。閖上港では大きなアイナメを釣ったこともある。
愕然とした。閖上港に向かう途中には、ところどころに形だけ残った戸建ての家、鉄骨建ての建物等が転々と残っているだけで、ただ、ただ広い荒涼とした荒れ地が続いていた。荒れ地には雑草が生い茂り、その間には家があった唯一の形跡であるコンクリート製の基礎が残っていた。貞山堀は荒れ地の中を流れる運河と化していた。
途中、閖上中学校に立ち寄った。閖上中学校は避難場所として人命を救った場所だ。
聞くところによると、閖上を襲った津波の高さは8mにも及ぶということだ。その他の場所では、20mを超える津波が押し寄せた場所もあるということだ。
しかし、あの広い荒浜地区全体を8mもの津波が覆い尽くしたというエネルギーの凄さに圧倒された。
翌日、仙台から女川町に行った。
女川町は、前日の荒浜とは違いリアス式海岸にある港町だ。
港町には前日と同様に建物らしきものはほとんどなかった。高台にある病院が避難場所となり人命を救った。その病院も1階部分は津波に襲われたということだ。そこで、驚いたのは、底面積の小さなビルが根こそぎ倒されていることだ。地面に打ち付けられたパイルごと建物が横倒しになっているものがあった。
港の海に近い場所に漁師が経営している食堂があり、津波の被害に遭ったが、その後再び開店していた。
店のご主人に津波の大きさについて聞いた。津波は、約15mある電柱の更に上5mくらいだということだった。そうすると、女川町を襲った津波は20mを超えていたということになる。
それは自分がこれまで画像等で見た津波を更に現実的なものとした。想像がつかないほどの凄まじいエネルギーだ。
女川原発にも足を向けた。
聞くところによると、地震により女川原発自体、約1m地番沈下したということで、津波の被害を受けるところだったというのである。
女川原発には、津波の痕跡は全くなかった。それが良いことだとは言っていない。
荒浜地区、女川町の被害状況とあまりにも対照的なことに違和感すら覚えた。
頭の中には、あの被災地の津波の高さを含む圧倒的なエネルギーの痕跡が残っており、それを何とか表現して伝えたいと思ったのだが、文章力の欠如も手伝って、それは到底できそうにない。
私は、TVなどでいう「自分でできることを精一杯やり、それによって被災地の方に力を与えたい」などという言葉は頭に浮かんでこなかった。
それは、私に力がないことが一番の原因であろう。
結果的に、鶴瓶のように力を与えることのできる人はいる。しかし、鶴瓶は、それを目的としていない。私は、鶴瓶は祈りを込めて被災者と接し、それが結果的に被災者に一時的な力を与えているのだろうと思う。それは凄いことだ。
しかし、若いスポーツマン・スポーツウーマンが、異口同音に同じことを口にするけれど、それは違う気がする。
あの光景を見て、そのときの状況を想像し、幾多の人命が失われたことを思ったとき、そこにあるのは、「力になれる」などという傲慢さはあり得ない。
ただ、ただ、祈りでしかない。亡くなった方への祈り、苦難の状況にある人が一刻も早く「通常らしき生活」に戻って欲しいとの祈りだけだ。
ただ、ただ祈りしかない。
そんな被災地巡りだった。
また、折を見て行きたいと思っている。