コラム

自由競争の結末?

格安料金が売りの「スカイマーク」が平成25年4月で沖縄-宮古島路線から撤退する。

同じ路線を持っているJALが、4月から料金を倍にするという。

それと同時に、JALは、羽田-釧路路線の料金を半額にするらしい。

羽田-釧路に路線をもっている「エア・ドゥ」が悲鳴を上げて、JALの料金設定が不当だとして国交省に駆け込んでいるというのだ。

 

ちょっと変じゃないか。

 

JALのやり方を言っているのではない。

確かに、JALは、会社更生法が適用され、再生支援機構から3500億円の出資を受け、5200億円の借金が免除され、更に4000億円の法人税も免除となったという事実もある。

 

しかし、私が変だと言っているのは、規制緩和の権化のような航空旅客業界で、格安料金をひっさげて算入した「エア・ドゥ」が、どうしてJALが安い料金を設定した羽田-釧路路線について文句をいうのかである。

 

「エア・ドゥ」は、参入時、それまでの既成概念を破るような料金設定をしたはずで、それで古いものに対する対決姿勢を示したはずだ。それが自由競争であったはずだ。その自由競争の結末が自己に降りかかってきたとき、規制から逃れたかったものが、国交省という規制側に助けを求める。変である。彼らのいう「合理化」により更に料金を安くすれば良いじゃないか。

 

私の言いたいのは、「規制緩和」とか「自由競争」と言っても、それは社会全体を良くする基準にはなり得ないということである。

規制とその反対形相としての規制緩和といっても、そこにあるのは、【規制があることにより利益を享受することができる者】と【規制緩和されることにより利益を享受することができる者】との戦いに過ぎず、規制緩和を叫ぶ者たちが、規制によって守られてきた者を「既得権益の持ち主」であると主張するのは滑稽だ。というのは、規制緩和によって許認可が不要になった者たちも、その後弊害により規制が必要となったときには、それ自身が「既得権益」と成り下がることになるからだ。ここに規制緩和のアイロニーが存するといわなければならない。

 

「規制」か「規制緩和」かなどといった、いわば抽象的議論でものごとを解決する時期は過ぎた。

日本にとって何が大切なのかを真摯に考え、それを守るためには規制もやむなしということはあり得る。

もっと、もっと、日本という国の方向性を皆で考えなければならない時代が今なのではないか。

今後も、日本郵政の株がアメリカやその他の資本の餌食にならないように祈るばかりだ。