昨今、民法の債権についての法律改正が論議されている。その流れは、一般実務とはかけ離れたところでなされており、私ごとき一弁護士がとやかく言ってみても、日弁連も同調しているかのような論調であり、それを止めることはできないだろう。
しかし、民法改正の論点を見ても、それは判例法が確立しているものを条文化することに終始しているものであり、それは民法学者が恰も自らの発案であるかのような功績を残そうとジタバタしているようにしか映らない。
米国と日本の業者との間における取引についての契約を見ることがある。米国側の作成された契約条項は、お世辞にも教養溢れたものではない。細部には亘っているが、言わずもがなの条項が濫立し、そこには裁量とか或いは含みのようなものが全くない。このような考えに対しては、「それが契約というものだ。」と馬鹿にされるかもしれない。
日本の実務家、それも現実の紛争を扱っている弁護士は、契約等についても極めてシンプルなものを求める。細部に亘って規定された条項といっても、紛争はその一つ一つの中に存在しているのであり、それくらいなら本筋の基本的な合意をしておくことの方が紛争を少なくする優れた契約である。その典型例が、店屋で物を買うときだ。現金を支払うことができないか或いはクレジットが通らなければ、店の人は物を渡さない。それが契約の原点である。
社会が複雑化したとしても、全てこの原点に還元することはできる。それができないというのは、複雑化した各場面において、新たに生業を確立した者がおり、それを保護するためでしかない場合も多い。
最近の法改正には、「こうしないと都合が悪い」とか「こうすると便利だ」とかの議論のみがなされ、改正した場合における原則との整合性を全く考慮しないものが多すぎる。
税法や商法などという歴史の浅い法律などは、政治などによって目まぐるしく変わる。それは、そもそも、米国などの財務諸表の原則を取り入れたときから運命づけられたものであるし、いわゆる「グローバルスタンダード」などというものを信奉する現在の経済学者・政治家からすると当然の現象であるに過ぎない。
それらの法改正は「ご都合主義」であるに過ぎないのであるが、それは基本的なものではないから、別段どうでも良いともいえる。
しかし、長い歴史を有する民法、刑法そして憲法となると、そのような「ご都合主義」による改正が許されるものではないのである。
民法という我々庶民にとって密接な法律については、これまで明治時代から莫大な判例により、解釈或いは適用が確立してきた。それが今直ちに基本的な改正をする必要性は全くない。名誉欲を満たそうとする一学者やそれを信奉する者たちによる「ご都合主義」的改正はなされるべきではない。
日本の民法は判例により確立熟成してきたものであり、改正の必要性は全くない。