先ほど、日本共産党が「国民連合政府」構想が野党に呼びかけられました。私は共産党員ではなく、批判論者かもしれませんが、このような動きを歓迎する一人です。
その構想の中心に小澤一郎氏がいることは明らかですが、民主党は非常にだらしがないと言わざるを得ません。なぜ、自ら積極的にそれを共産党に提案しなかったでしょうか? 仮に、以前から提案していたというのであれば、なぜにそれを公表してこなかったのでしょうか?
このような現象に、私は、共産党のしたたかさを見る気がするととともに、民主党が「甘ちゃんお兄さん・お姉さん」という「お子ちゃま」の集まりであることを垣間見てしまいます。
民主党は政権まで担った政党です。しかし、政権を担ったときなど、「2番じゃだめなんですか?! 1番じゃなければだめなんですか?!」などと息巻くだけの女性議員を全面に出し思慮分別のない「改革」を叫ばせたり、東日本大震災のときなど狼狽えて何ら大人らしい手段を講ずることができなかったり、宇宙人のような代表が在任中も引退して政界を去った後にも国外で訳のわからない行動を取ったりして、国民に変なトラウマを与えてしまったのです。
その後、そんな子供たちには政権は任せられないとして、現在の政権が誕生してしまったのですが、それがまた議員の数の力を「国民からの負託」を受けたなどと嘯いて、まやかしコンサルティングや戦争お宅と結託して、やりたい放題をしだした。
奇しくも、私は、この共産党の発表の約1ヶ月以上前、共産党員で教養溢れる弁護士さんに、若干嫌みを込めて、共産党がほぼ全ての選挙区で独自候補を立てることについて批判じみたことを言いました。それは、共産党が名前も政治的な手腕もあるかどうか疑問符の付く人材を候補者として出すのは単に共産党の支持の統計をとるためだけだということができるからでした。その弁護士さんからは明確な回答はありませんでしたが、私と同様のお考えを持っておられる様子ではありました。
今の政治に欠けているのは、「日本が何を目指すのか?」という抽象的ではありますが、重要な課題についての議論が不足していることです。それは極めて哲学的なものだと思います。民主党はもっと真の意味での大人にならなければいけません。そうでなければ、その存在価値はありません。(これは今後の民主党に若干の期待を持ちたいからです。)
「宇宙」ですら「ビックバン」により始まったというのです。始まりのあるものには終わりもあります。
まして、宇宙の中のチリでしかない地球、そして、日本は、その地球の極東の片隅にひっそりと存在する小さな小さな国でしかありません。そのような国が明治維新後、幾度の戦争を経て、最後の戦争である太平洋戦争により壊滅的な損害を蒙りました。その後、国民全体の努力により一時はGDPなるものが米国に次いで世界で2番目にもなった時期があります。それ自体はもの凄いことでしょう。そのような経済成長により国民の生活は以前に比して格段に良くなっていることも確かです。
戦後、経済成長を目指した人たちには、「戦争で壊滅状態となった日本を何とか復興しよう」とか「日本国民の生活をより良くしよう」という目標があったはずです。
その結果、企業は巨大化し、その利益追求のため、効率化と称して、海外に拠点を設け、市場を海外に向けるようになりました。
これは企業自体が巨大化しすぎて、その図体を維持するためには一見無限とも思えるか拡大をしなければ維持できなくなったからです。
ここにおいて忘れられたことに「足を知る」という概念ではないでしょうか?
宇宙ですら有限か無限かが判っているとは思いません。
それなのに、企業が恰もその活動が無限であるかのように「経済成長、経済成長」と叫んで膨らんでいく様は滑稽ですらあります。
中世から近世にかけて、大英帝国、オランダなどが現在の米国、中国、日本のように世界を席巻していた一時期もあります。そのときの大英帝国等と現在の米国等とは歴史の中でオーバーラップするところがあり、いつかは衰退の時期を迎えるはずです。それにもかかわらず、今、現在、この歴史的事実を全く顧みないまま、膨張を続けようとする思考には全く与することはできません。そこには歴史から学んだ知識、教養、教訓、哲学が全く欠落しているのです。
話が若干道を外れてしまいました。
共産党と他の野党が結びついて新たな発想で自民党独裁に立ち向かうことは大変良いことで、憲法がなし崩し的に法規範としての意味を持たなくされたり、更にはご都合的に改正される最高法規性を失うことはあってはなりません。そのための共産党を含めた一種の共闘はあるべきです。
しかし、共闘をしようとしている各党には、例えば憲法9条を改正すべしとの意見を持っている者、福祉のみが政治の全てであるかのように叫んでいる者など様々な場面で意見の対立があり、前途多難であることは間違いありません。今回のコラムの題目の「不安」はそのような意見の対立を乗り越えることができるのかの気持ちを込めました。
しかし、意見の対立を乗り越えてまとまったときには、大きな力となることは間違いありません。
意見の対立があったときに、私は、枝葉末節のことではなく、政治の根本である「日本は何をめざすのか」という国家論をとことん議論すべきであると思うのです。
花は葉で作られた栄養分で咲き実をつけます。
しかし、葉は枝がなければ存在しません。
また、枝は主幹から芽を出して成長します。
主幹は根に支えられ、水分や栄養が供給されなければ存在しません。
根は大地に張り巡らされ、主幹-枝-葉-花-実を支えます。
「根本」とは言い当てて妙であります。
「有限な経済成長」を無限と錯覚し、枝葉の場面での議論を繰り返すことがあってはなりません。
急がば回れです。抽象論と揶揄されようが、日本国の将来像を踏まえた、現在のあり方についてきちんとした議論をなすべきです。それは「女性の権利を向上させましょう」「弱者を保護しましょう」などというものではありません。
「対案のない意見は無責任で聞く必要はない」などという意見は全くのナンセンスです。
「対案のない意見は無責任で聞く必要はない」を判りやすく翻訳すると、究極のところ「お前は黙っている!!」と同意義です。
国家の生き様という根本を語る場合、その議論は哲学的なものとならざるを得ません。
そして、議論においては、枝葉の部分のような具体的な対案がでることはありません。
「輸出を増やして企業を活性化しよう」などということにしか思いが至らない者、或いはマネーゲームにより経済をみることしかできない者は、いわゆるビジブルなものしか思いつきませんから、抽象論を嫌います。しかし、それでは日本国の立ち位置をどのようにするのかの根本を決める議論は全くできないのです。
ちょっといろいろな考えが浮かんできてしまいますので、最後に、共産党もその他の野党においても、日本国の根本を定めることに時間を割いて、党略などいうものは脱ぎ捨てた真摯な議論をされることを期待しております。取り留めのないコラムとなってしまいました。