コラム

子供が転んだとき

あるとき、メガショップの婦人服売り場で見た光景

母親がセールの品物を盛んに漁っている傍らで、3歳くらいの女の子が大きな声を上げながら床の上を転げ回るようにしている。たぶん、女の子としてはつまらなかったのだろう。時折、「マーマ!マーマ!」と大声を出している。品物選びに夢中な母親はそれには全く答えない。

そのうち、女の子はそこら中を走り回り、遂に床にバッタリと転んで、したたかに手足を床にぶつけた。痛かったのだろう、女の子は凄まじい声を出して泣き出した。

それを見てようやく母親は女の子にドカドカと歩み寄り、女の子の二の腕近くをつかみながら女の子を起こしながら、「何やってんのよ!だから走っちゃいけないって言ってるでしょ!」と言った。女の子は痛みがまだ癒えていないらしく、なかなか泣き止まない。すると、母親は「泣くな!」と強い口調で言うとともに、女の子の腕をさらに強くつかんで引きずるようにその場を離れた。

その後の母子の様子はわからない。

「他者がしていることをむやみに邪魔しない」こと

それは躾としては大切なことで、人が何かを一生懸命やっているとき或いはその横で大声で話したりすることは言語道断である。

しかし、それは人が若干成長した段階のことであり、3歳といえば、まさにこの躾の基礎段階にあると思う。

しかし、3歳の時期には箸の持ち方もそうだが、それより人間としてもっと大事なものを身につけさせなければならないのではないか。それは教えることではない。「与えること」である。

与えるもの。母と子の関係でいうと、母の優しさだろうと思う。それは人間の優しさと言ってもよい。小さな世界しか持たない3歳の子にとって、「人間」の代表者は母親なのだ。

先ほどの事件に戻って、母親が女の子に最初にかける言葉、それは「大丈夫?」ではないか?

女の子は、転んで痛がっているのだ。それも、無理矢理つれておられた母親のためのバーゲンの売り場で。そんなとき「何やってんのよ!」「走っちゃいけないって言ってるでしょ!」と言われてギュッと二の腕をつかまれたらどうだろう?

そこには、母親の感情的なエゴしか見えない。女の子の痛みを和らげる動作は、それ以後も全くなかった。

母親としての模範解答はと自分なりに考えた。

「大丈夫?」と女の子を抱き上げる。

「ごめん、ごめん。もう行くからね」と言って買い物を切り上げる。(ここにおいて、母親は子供を自分の欲望の巻き添えにしてしまったことを若干悔いている。)

先ほどの母親も、その母親から自分がしたようなことを受けたのだろう。これも一種の虐待かもしれない。しかし、この母親は女の子が早ければ10歳を過ぎたころから、凄まじいしっぺ返しを受けるのではないだろうか?

子供は優しく、大切に、そしてきちんとした躾をして、育てたいものである。

それは、社会のためでもあり、親自身のためでもある。