前回、横浜の賦子叔母の形見として、父の書簡をもらったことはお話しした。
今回は、賦子叔母の夫を悼んで、恒男伯父(母の実兄 故人である。)が、賦子叔母に送った書簡についてお話しする。
恒男伯父は、亡き母より3歳年上で、亡き父と同い年だった。
賦子叔母の夫即ち守正叔父は、永年NHKに勤めていたが、退職後、昭和64年1月7日(昭和天皇が身罷った日)に食道癌で亡くなった。
恒男伯父は、当時、心筋梗塞の発作それも小さくない発作を3回も経験し、聞いたところによると、心臓の1/3の心筋は壊死状態であったということである。
そんな恒男伯父が、自分より10歳以上も若い守正叔父が亡くなったことを悼むとともに、賦子叔母を慰める書簡であるが、それは本当に哲学的で、昔の人の思慮深さと心の機微をが窺えるすばらしいものであると思う。
拝啓 先般守正君葬儀の節は身体にかまけ、代理の者を差向け大変失礼しました。守正君の容態に於いては陰ながら心配致して居りましたが急に病気が改まり急逝するとは誠に痛哭の極みです。死の順序が正常ならば小生の如き何時死んでも不思議がない者が生き長らえて一番若い人から逝くとは誠にままならぬ世の中です。然し乍ら定年も過ぎ孫の顔を見て一番幸福な時期に少しでも遇ったことを思へば以て冥すべきです。私も死生の間に彷徨すること両三度 逝く者は決して寂しいとか悲しいとか暗黒が恐ろしいとか思うものありません。只無意識のまゝ眠るそうです。死とは有機物が無機物に代わる丈のものです。後に残った家族も心をそれに致し心強く頑張るのみです。当分は淋しく悲しみは続くと思いますが、皆で心を合わせて暮らすようにしてください。
四十九日忌に御招きを受けましたが、小生の身体も寒い時は要心しなければと常々慰謝に言われていますので、
(中略)
又時期も進み桜の咲くような時になったら気晴らしにこちらに遊びに出掛けて下さい。鎌田の嘉恵子も身体の調子が良くなく当方にもまだ一度も見えません。この病気も暖かになれば段々と快くなることと思います。久方に筆を執ったので文面になりませんが不悪
皆さんの健康を祈ります
御霊前にと形ばかり同封しておきました。失礼します。 敬具
兄より
賦子どの
恒男伯父は、戦前、大伯父が経営していた商事会社(本店は何と中国のハルピンだ。)の番頭格として中国に行っていた人だ。敗戦により、実家に戻っていたが、とても学のある人だった。私は、毎夏、恒男伯父の家に泊に行き、「カブトムシ拾い」をしたりしていたものだ。
これも何もコメントすることはない。ただ、ただ、私と従兄弟の宝物のひとつだ。