私の敬愛する横浜の叔母が亡くなった。1周忌の法要のとき、小さいころから兄弟同然の付き合いをしていた従兄弟から叔母の形見として、いくつかのものをもらった。それらはいずれも宝物だった。
① 弁護士事務所を開いた昭和63年8月の暑中見舞い(叔母に私が送ったもので、宛名は平成22年に亡くなった父が書いてある。)
② 事務所を開設してから1ヶ月くらいしか経っていない昭和63年5月2日付で、叔母に送った事務所開設祝いに対する父の自筆による礼状
③ 叔母の夫(昭和64年1月7日 昭和天皇が身罷った日に死亡)を悼んで、伯父(母の実兄 故人である。)が、叔母に送った書簡
その他にもあったが、今回は、②の父の手紙を紹介したい。というのは、生前、父と私の関係は、決して誉め合う関係ではなかった。男同士の緊張感というか、意地というか、そんなものがあり、「友達」などという関係では決してなかった。それは私が小さいころからも、大人になってからも全く変わることはなかった。
そんな父が以下のような手紙を叔母にしたためていたのだ。私について書かれている部分をそのまま紹介する。(実物は縦書きで筆ペンで便箋に書かれている。私に関する部分は全体の3/4くらいである。)
この二、三日急に暑くなりました。
先日は、尚の事務所開きのお祝いを頂き、ありがとうございました。
刑事事件の国選弁護人の仕事が一つ、土地問題が一つ、会社倒産事件が一つと、開所草々にしては幸先良い出足で、喜んでおります。
その間、松本の弁護士会の歓迎会、県連会長の就任祝、付合いゴルフが一回と、いろいろ忙しいようです。事務所の方も、看板、表札を掛け、机、いすを入れ、本棚も入れたい応接セットも入れ、ジュウタンを敷き、カーテンを取り付けてもらい、留守番電話も入れ、電子コピーも入れ、絵の額、時計も掛け、やっと事務所らしくなりました。
倒産の事件は、当事者が来た夜、徹夜で書類を作り、翌日裁判所に提出、財産保全執行して貰いに(地名)まで行き、債権者を集めて今後の進め方を説明してきました。尚には言わないけど、わが子乍ら、その手際の良さには驚きます。九年間の裁判官勤務の成果と思います。なんとか食べて行かれそうです。(以下 略)
昭和六三年五月二日
野 村 良 男
田 中 賦 子 様
開業当初は、事務員もおらず、父が押しかけるようにして事務所の留守番に来ていた。そして、帰宅するときなど、その1日にあったことを事細かにノートに書いて残していった。
これについては何もコメントすることはない。ただ、ただ、私の宝物のひとつだ。