「前向きに生きる」
最近よく耳にする言葉だ。何か悪いこと或いは不幸なことが起きたときに、それを払拭したり、慰めたりするときなどに使われる。
言葉というものは、それが一人歩きして、何が何でも「前向き」であることは良いことで、後ろ向きになることはそれと対比されるかのような印象を受ける。
これまでの停滞した状況を打開するためのモチベーションとして使うのかもしれない。
しかし、これが乱発されると、「前向き」とは一体何なのか?と疑いたくなる。軽々しいのだ。それは恰も「過去を忘れろ」と言っているかのようなのだ。
人がある決断をしてそれまでと異なった生き方をするとき、前向きにならざるを得ない。
問題は、前向きになるまでの経過だ。
本来の意味における「前向き」になるためには、過去の事実についての精算が必要であり、それがないものは単なる「忘却」に過ぎないのではないか。
過去の清算と忘却とは全く異なる。忘却は単に過去を捨て去ることであり、精算は過去を忘却することなく、それを肥或いは道標として生きることではないか。
過去の自己と真摯に向き合い、一体自分はどのような考えをして、そのような言動或いは行動をなしたのかを考え、その精算をする。それは極めて体力のいる作業だ。
しかし、それができたとき、初めて「前向き」に生きることができるのではないか。それは本当に体力を必要とする作業だろうし、前向きに生きようとしてもいつも過去が頭をもたげる度に再度体力を使うことになる。とても大変なことなのだろうと思う。
戦後60年以上を経過したにもかかわらず、中国や韓国が過去の戦争責任を精算していないとの要望を使うことがある。それは、戦略的なものかもしれない。
しかし、現在の日本人が軽々に「前向き」を口にすることと無関係だとは言えないのではないか。
また、考えよう。