前に丸ノ内線内での杞憂のようなことを書いた。
私が、杞憂のようなことを考えている隣には、リュックサックを背負い、スマホを片手にしたうえ、ウォークマンのヘッドフォンを両耳にギチッとはめた年の頃20歳代半ばの男性がいた。
その人の耳で聞き、目で見ているものは、肌で感じたりしているものとは次元の違うものではないか。そして、多分、耳で聞いているものと、目で見ているものも、次元が違うものなのではないだろうか?その人は、3つの次元を一度に体感しているのではないか?
私には到底できない。というより、そんなことをしたいとは思わない。
その人は、私が丸ノ内線の中で感じた危機感(結果的には杞憂だったのだけれど)を感じる余地がなかったのではないか。
そんなことで良いのだろうか?
ボストンマラソンのような出来事が以前に増して発生する確率が確実に増えている。それなのに、日本人は、「安全」神話に甘んじて、場所・時を選ばず「ゲーム」に熱中し、耳からは「好きな音楽」などを入れ、森羅万象を排除している。
日本人は、自ら本能として与えられた「危機」に対する防御を敢えて放棄していると思うのだ。
それは、危険に対するものだけでないように思う。幼少時代からの大人としての行動をしてしまうこと。それも順調な自然現象に反することで、そのため、少子化や幼児の虐待という現象にも現れているのではないかと思うのだ。