私は、勝負事を見るのが結構好きです。囲碁・将棋・競馬・剣道。ボクシング・サッカーその他勝負を見るのは面白いものです。
私自身も囲碁を少したしなみ、将棋もルールだけは知っているという程度です。
今回は、将棋という勝負事(芸術かもしれません。)を通じて感じたことを述べてみたいと思います。
囲碁・将棋というものは、歴史の古い勝負事で、そのルールは古くから変わっていないものです。囲碁は、先番である黒石を持った方の勝率が圧倒的に良くなってしまうことが判り、ハンディとして先番が4目半というハンディが設定されましたが、その後、そのハンディが5目半となり、昨今では6目半になっています。
将棋にはこのようなルール改正はないのではないかと思います。
将棋の棋士はあの限られた盤面で、叡智を尽くし、戦うのですが、戦場が狭いだけに小さな様々な工夫が凝らされ、素人ではどこが違うのか皆目見当がつかないことがたくさんあります。
将棋では、各駒の移動する方向・その数が決められており、「歩」に至っては、前に1歩しか進むことができません。しかし、歩が進行して、相手方の或テリトリーに進入したときには、「金」(「キン」です。「かね」ではありません。)になることができ、その能力は「金」と同じになります。いわゆる「成金」です。
このルールは将棋が成り立つうえで、絶対のものです。
将棋の勝負の中では「歩が横に動けたら都合の良いのに」とか、その他の駒も自由に動けたら良いのにと思う場面が幾度も出てきます。しかし、将棋において、そのようなご都合的なことが起きる可能性は全くありません。駒が都合により動く方向・数が自由になってしまったとしたら、そもそも将棋は成り立たないのです。
将棋は、各駒に与えられた制限(動く方向・数)を前提として成り立っているもので、それを単に「都合」により変更することは将棋の否定であり、将棋の世界を崩壊させるものなのです。
棋士は、各駒に与えられた制限の中で、叡智を絞り出し、当該場面における最善手を探し出すのですが、それは死ぬような努力と体力を必要とします。そのときの棋士の脳は熱で沸騰しているのではないかと思われるのです。
ところで、最近の世の中では、「お金がなかったので借りた」、「(人から)こう言われたので、こうした」「(・・・)が邪魔だったから、消去した」などということが氾濫しています。そして、それらは、全てが必然性を持ったものとして、当然であるとか、仕方がないとか安易に受け容れられています。
お金がなかったとしても、借りるのは必然ではなく、工夫があるはずですし、邪魔なものがあったとしたら、消去するだけでなく、それと共存する工夫もあるはずです。
そして、それと同じ議論が、憲法改正の議論の中にもあるような気がしているのです。
自衛隊を「軍」とすべきとか、集団的防衛権を認めるべしとか主張する人は、憲法9条が防衛上邪魔だと考えているのでしょうが、世界に類を見ない平和憲法(それは誰が作ったなどということとは関係ありません。)の理念は崇高なもので、日本人の誇りです。
自衛隊や防衛については、憲法の枠内でどのように工夫するかを議論すべきであって、自衛隊を軍とする議論が先行し、そのためには憲法の条項が邪魔だから改正するというのは、論理の逆転以外の何者でもありません。
このようなご都合主義は、現代社会に蔓延しています。そして、国の最高法規である憲法もこのご都合主義で改正されたりすると、日本人の根源はなくなってしまうのです。