ここでいう「守る」というのは、規則の遵守の問題ではなく、いわゆる「ディフェンス」のことであり、「俺がお前を守ってやる」と言うときの「守る」である。
「人を守る」「家族を守る」「最愛の人を守る」「おまえを絶対守る」等々いろいろある。
青春ドラマ(古い言い方か?)では、同じような言葉が結構氾濫している。
そして、その影響なのか、巷でもそんな言い回しが氾濫しているような気がする。
具体的にある人がある人を「守る」とはどういうことか?
例えば、奥さんが交通事故を起こしたとき、ご主人が「妻は悪くない。悪いのは相手方だ。」と声高々に主張して、様々な証拠を収集することに奔走する。
近所の人から奥さんが嫌な思いをさせられたとして、慰謝料の請求をしたいと言う。事情を詳細に聞くと、それは奥さんが悪口を言われた人の一段上に立って見れば馬鹿馬鹿しいことである。ご主人もそれに薄々気付いている。しかし、ご主人は、ヒステリックになっている奥さんを宥めることができないで、奥さんの言うがままの主張を、恰も自らもそう思うかのような主張を継続する。
こんなことは結構氾濫している。
そして、このような場合、ご主人が奥さんを守る方法論は、「相手方を攻撃・論断すること」で、それに終始する。
確かに、無用な攻撃を受けたときの守りは、このようなものかもしれない。
しかし、ちょっと待ってください。
ご主人、毎日出勤するとき、ご近所の人と顔を合わせることがありますね。そのときに、ご主人、あなたはご近所の人に、元気な声で「おはようございます!」と言ったことがありますか?
ゴミ出しの当番を担当している他家の奥さんに「ごくろうさま!」と声をかけたことがありますか?
近所の子供が転んだら、すぐさま手を貸してあげて「大丈夫?」と声をかけたことがありますか?
奥さんの友達から電話がかかってきたとき、「はい。」と言っただけで、「・・・です。」とか「妻がいつもお世話様です。」などと言ったことがありますか?
子供達と一緒に外で遊んでいるとき、近所の人が通りかかったら、子供達と一緒に「こんにちは」と言ったことがありますか?
私の言いたいことは、このような何気ない動作或いは言葉には、「守る」ということが含まれていないのかということである。
相手方を攻撃し、論断し、平伏させることだけが、「守る」ことだと思ったら大間違いだと言いたいのである。
「風の谷のナウシカ」は、誰も傷つけないで、オウムから谷を守った。
「となりのトトロ」では、お父さんは極めてトーンの低い穏やかな声で、やんちゃな子供をより良き道に導いている。
喉に血管を浮き出させて主張はしない。
今のドラマはどうだ?自らの主張を相手に判らせようとするとき、語気を徒に強め、怒鳴る。「俺がおまえを守ろうとしているのに!どうして判らないんだ!!」と。
しかし、君にはその力はないのだよ。
これだけ攻撃的な人が多い世の中に、更に攻撃的な主導者が出てきたらどうなるのか?
一般社会では、主体性がなく、だらしがないのに、やたらと攻撃的な人が多くなっているような気がするのだ。
そのような民とそれを操る超攻撃的な指導者とのコラボレーションは怖い。それは民の能力が指導者の能力には到底及ばないものだからだ。
日本に、嘗てドイツなどで起こったユダヤ人経営の店からの不買運動に端を発し、ヒトラーに煽られた民衆の力で惹起された悲劇・惨劇と同じような状況が起きないという保証はない。
「家族を守る」「大切な人を守る」ために、人は何をすべきか?もう一度考えてみようではないか。相手を攻撃し、平伏させることは「守る」ことではないことだけは確かだと思うのである。